好きなもの

私には多分好きなものがない。

でも私のことを知っている人間なら誰もがそれは嘘だと思うだろう。だって私は好奇心旺盛でいつだって何かしらの趣味に没頭してるイメージがある気がするから。確かに多趣味だし、色んなことに手を出している。でも、本当は全部「あってもなくてもどっちでもいいもの」でしかない。

私の頭の中には理想像だけ。これがしたいからやる なんてことは無い。自分がどんな人間か掴むために何も無い自分に何かを足す。文学少女の話を偶然テレビで見ていいなって思ったら本を読むとか、バンドのイメージもいいなあって思ったらギターを始めるとか。そういう話。別に本が好きなわけでもギターをやりたかったわけでもない。映画なんて、そういうイメージを掴むために見てる。そういう、「これを好きなのが私だ」みたいな肩書きを作って頭の中にイメージ化しておかないと自分を見失うから。正直な話、本なんて読むの面倒だし、映画だって見なくても別に困らない、音楽でさえ無くても構わない。私の趣味や好きだと語ってるものは全て、こういう「どうでもいい」で構成されてる。何も無いならなくてもいい、でもそれは自分が誰かわからなくなるから困るってだけ。

進路でも同じ。「興味のある学問はなんですか?」「やりたいことはありますか?」「将来の夢はなんですか?」どれも同じとしか言えない。好きなものも嫌いなものもない。やりたいことも、興味のあることもない。だからたいてい友人や家族に語る時は常に「これが好きでこれを目指してるのが私」という肩書きを先に作ってからそれをもとに「法学を目指してる」とか「やっぱり歴史は好きだなあ」とか適当なこと言っている。単にそれは今の自分のイメージがそれだからという理由でしかない。そんなの全て好きじゃない。好きだって思い込ませて好きだと語ってる。自分に嘘をついてる。でもつかなきゃ何も始まらない。

だから本当は自分の将来も趣味も人間関係も全部どうでもいい。興味が無い。嘘でも好きだって言わなきゃ私には何も無くなる。ある意味全部私利私欲のためだけ。私が私でいるために私のためだけに生きてる。私が今もってるものなんてすべて捨てられる。

これが好きって思ってみたい。何かを一生懸命好きになってみたい。でも、そんなものは1度も出会ったことがない。私の選択肢はいつも「ああ、これならそこそこいいかも」みたいなイメージで選んでる。こういうのが私っぽいかなあっていう雑な感じで。「好きなことを今は一生懸命やればいい。仕事なんて後でもできる!」って言われたこともあるけれど、好きなことなんてない人間にはそんなの意味不明だ。好きなことってなんだろう。やりたいことなんかひとつもない。

「大学行きたい」「親の期待に応えたい」「周りを見返したい」「勉強したい」「やりたい仕事につきたい」「お金持ちになりたい」

そんなの言ってるだけで思ったことない。大学も親の期待もみんなへの嫉妬もやりたい仕事もお金も、全部どうでもいい。めんどくさい。そんなものいらないし欲しくない。でもそれしかないから、それが無難だからそうする。何もしたくないし何も目標がない人間はそうするしかない。世の中にいっぱいいるはずだ。好きなこともやりたいことも何も無いけど生きてる限り無難な道に行く、みたいな人。私は今までそういうふわっとした人間を散々批判して言いたい放題言ってたくせに、その文句は全部自分に向けてる言葉だ。自分がそういう人間って認めたくないから無理やりやりたいことをやってるように見せてる。それで自己満足してる。自分なんてない。いない。そんなものはない!

ただ私はなりたい人を演じてるだけ、こういう人みたいに生きたら楽そうとかそんなことばっかり。違う人の人生生きてるみたい。でも自分なんか知らない。分からない。理解なんてできない。だからもういい。どうでもいい。

本当にどうでもいい。

金曜ロードショー

ズートピア』を見たんですよ。さっき、金曜ロードショーで。

私は見るのは3回目で、2回は公開初日と最終日、つまり2年前の春先です。ズートピアの差別や苦難を乗り越えて前に進む話に2年前の私は素直に感銘を受けて、キラキラとした輝かしい気持ちを抱いたものです。毎日主題歌を聞きながら学校に通い、胸を張って生き生きと「これから正義のために生きるんだ!」なんて意気込んで。あの頃の私は美しかったとそう思えます。今よりはずっと素直で悪を認めず善を信じ続けていましたよ。少なくとも、ディズニー映画を見て「人も通じ合えるんだ!」「私が愛せば皆も愛してくれるんだ!」と心の底から期待するほど。

それがどうです?今見終わった感想は、「真っ直ぐだなあ」でした。もちろん、ウサギの警察官も相棒のキツネもそれぞれにひねくれてるところはありますし、ニック(キツネの方)なんかは過去にトラウマもあって中々に屈折してますが、でも普通に幸せになるんですよ。ハッピーエンド。努力は実るみたいな。信頼は信頼で返されちゃうんですよこの世界では。圧倒的な信頼を置いていた立場からの裏切りは起こらない。裏切りが起こったとしてもそれは罪として罰が与えられる。正当化はされない。

まあそりゃあディズニー映画ですし、バッドエンドにもメリーバッドエンドにもできませんよ。信頼は信頼で返すのがお約束ですし悪が悪のまま隠蔽され続けるというのもないでしょう。作り話ですからね。

いや、素晴らしい映画なんですよ。大好きなんです。主人公も相棒も可愛くてもう何回でも見たいですよ。でも、見る度に結構私はダメージを喰らうんです。

「努力がこんな風に報われたらなあ」「信頼出来る人がいたらなあ」「誰かに愛される経験をしていたらなあ」「相手をこんなに素直に見れたらなあ」「相手の言葉が自分に届いたらなあ」

なんて考えて、いやありえないなあと一人で自分に呆れるんです。私は他者の言葉を全く信じられませんし、信頼は裏切りで返されたことばかり、努力はいつだって報われない。だからこの物語を見ていて、ここの世界の人(というか動物?)たちは真っ直ぐだなと思いましたね。ええ、眩しいくらい。

2年前のように希望を抱いて相手に期待するなんてきっと一生できないでしょうから。友人曰く、私はすっかり変わってしまったらしく良くいえば「割り切れる大人になった」悪くいえば「心がなくなった」という言われ方をしたのを思い出します。別に嬉しいとか悲しいとかはあるので心はあると思いますけどね。でも確かに、親の前でも人前でも自分の前ですら滅多に泣かなくなってしまったし、今まではその人を幸せにしたくて優しくしていたのも、優しくするのが正しいからしているだけになってしまって、相手がどんなに悲しんでいても情緒的サポートのひとつもできず確かに心は減ってるのかなとも思います。実際、このまま無くなってくれたらとも考えますよ。その方がずっと楽でしょうね。理想的ですよ。

 

珍しく弱ってますね。明日からまた強く生きましょう。

非公開

自己洗脳を毎日し続けたら本当にそうなれるのだろうか。

 

誰しも嫌いな自分というのはあるだろう。私もある。ある、というより以前の自分そのものが嫌いだ。自己否定感が強く、いつも憂鬱で、何事もやる気がない、卑屈で自信がなく、自分は幸せになってはいけないと思っている自分。そんな人格は壊してしまいたいと思った。

色々努力をし始めた頃、新しい私は私らしくない と言われたこともある。「もっと優しいのがあなただ」とか「情に弱い方でしょ?」だとか。優しくしたいからしてるわけじゃない。優しくするのが正しいからしているだけだ。それはこれからだって変わらない。正しいことはやめない。それにそもそも、私らしいってなんだ?自分ですらわからないのに、他人がわかるなんてすごいなあと思う。だとしても、他人の言う私らしさなんて何を基準にしているか知らないがその意見に従う理由が特にない。

失敗をしたくない。それが一番だ。失敗なんてあってはならないんだ。余計なものなど何もいらない。怖いものなどなくなりたい。私は私をやめたい。

別に復讐じゃない。そんな誰かのために生きるようなことはしない。そんなものはどうでもいい。ただ悲しみたくもないし喜んで調子に乗るのも嫌だ。どちらもろくなことがない。

感情はいらないんだ。そんなものは今必要ない。必要な時にだけあればいい。

今までの全てを捨ててしまいたい。

友人の戯言

この世界が全て劇なら、私は悲劇のヒロインにはなれない。いや、なれたらよかった。悲劇のヒロインは最後は愛されるからだ。シンデレラも、白雪姫もそうだ。悲劇のヒロインはいつだってハッピーエンドと決まっている。でもこの舞台での私の役はただの村人だ。名前も与えられてないような脇役。貧乏で、運が悪く、何事も上手くいっていない、そんな不幸な村人なのに、誰も気づかない。気づいても気にしない。名前も知らない村人のことなどどうでもいいのだ。村人?誰?そんなの、知らない。知らないから関係ない。それだけ。誰もがそうだ。

でも他の人にはちゃんと役割がある。名前もある。悲しみも痛みも辛さも舞台上で認識されている。家族が、友人が、誰かがその人の不幸に不運に気付いている。そして労り、愛し愛されている。

私の頭の中は被害妄想だろうか。もちろん私の人生を今語ることは多すぎて不可能なので被害妄想か否かは、君に伝わるはずがない。いかにも被害妄想らしい発言であるし、おそらく誰もがそう捉えるだろう。だからだ。だから救いはないのだ。悲劇のヒロインは被害妄想ではないのに、どうして不幸な村人は被害妄想なんだ?その違いはどこにある?むしろ舞台で認識され、主役や準主役の座にいる悲劇のヒロインは不幸でも悲劇でもないじゃないか。誰かが悲劇だと教えてくれているのだから。それだけでも救いの手は既にあるんだ。

観客はわかりやすい話が好きだ。わかりやすい幸福とわかりやすい不幸を好む。誰にでも共感できるような無難な話を。

分かりにくい幸福も不幸も、認識されない。観客からはブーイングだ。こんなのは駄作、つまらない!だから酷評で幕を閉じる。

それに決まって明らかに当たりの役がある。大富豪の娘だったり、王様の跡取り息子、貴族のお偉いさん…。彼、彼女らは欠点があまりない。確かに、性格が悪いだとかそういうのは多少あるだろう。しかし大きな不幸には見舞われない。順調に出世しそのまま普通に成功する。勝利をすんなり獲得する。

その横で貧乏で、学歴もコネもない人々はもがき苦しみ倒れていく。気づかれもせずに。

これはなんという悲劇!悲劇のヒロインとは倒れていく人々に贈るべき言葉だ!誰も知らないところで絶えていく者をハッピーエンドへ導くべきなんだ。

まあでも実際、作り込まれた物語の中ではそういう意地悪な成功者は追い出されるのがオチだ。でも、現実にそれはない。元々恵まれた人間は恵まれるままに成功に、恵まれない人間はどうあがいても前者に適わない。

しかし、世の中が悲劇のヒロインと言うのはたいてい前者に唐突に起こった不幸の物語だ。最初から不幸な人間には見向きもしない。

確かに、恵まれた人間が何か罪を犯したわけではない。だから恨むのはお門違いかもしれない。だとしても、恵まれない人間がなにか罪を犯して不運に陥ってるのか?違う。好きでなりたくて、自分のせいでそうなったのではない。生まれ持ってしてそうだっただけだ。いったい彼らになんの罪があるんだ?どうして報われない?何故ハッピーエンドになれないんだ?

何故いつも彼らはおいやられ、そうして君たち自身が悪いのだと洗脳され、しまいには成功なんて夢を見なくなる。完璧なバッドエンド。

作り物の物語はよく言う。「愛」「情」「信頼」が大切だと。

果たしてそうだろうか。そんな不確かなものに何があるだろう。恵まれた者にあるそれらは、恵まれない人間にとっても大切だろうか。最初から持っていないのに?どうして大切だと分かるのか。そんな言葉は、恵まれた人間の美談だ。ただの美しい物語。偽物の、いや、正確には私たちにとっての偽物の物語。

だって私は知っている。人は必ず裏切ることを、恩は仇で返されることを、愛は見せかけであることを、人は嘘しかつかないことを、すべて。人間に美しさなどない。私はただ、返ってこないものには執着しないんだ。家族も含めて他人には関心がない。何を期待したって無意味だからだ。期待などしようがない。だから怒りはない、相手に何を言われてもあまり傷つかない。

これでいい。私は舞台なんて降りてやる。こんな劇を続けるのは疲れる。全てやめて閉幕。

たった一人きりの舞台を始めよう。もちろん主役も悲劇のヒロインも、村人も意地悪な成功者も全部私がひとりで演じる。最後はハッピーエンド。誰にも邪魔はさせない。君も素晴らしいと思うだろう?

 

なんて話を今日一緒に飲んだキザな友人が語っていたんです。かっこつけて自分に酔い、私を真っ直ぐに見据えて満足そうに笑う友人がね。

ところで、その友人は帰り際に言ったんですよ。

「最近友人を失ったんだ」

と。

 

それは、まるでペンを失くしたから買え変えないと、というようなノリでした。人は消耗品とでも言うように、無関心そうにスマホを眺めながらヘラヘラ笑って。

それも、一番の友達を失くしたというのに。

ちょうどいい。

月が変わっても私の気持ちは進まない。五月病を引きずっている。無限ループみたいな日常なのに、「明日が来なければいいのに」を毎日言ってる。生産性なんてない。でもこれは確かに私の幸せだ。

夏になる。私は夏が好きだ。優しい気持ちになるのに、暑い日差しは私を許してくれなくて悲しくなるから、好き。夏の匂いは独特で、春のような新しい清々しい気持ちを運ぶ訳でもないし、秋のようにほっこりするような柔らかい匂いでもない、冬のしんとした心の奥底まで見えるようなものでもない。

もっと、虚無だ。懐かしいような寂しいような気持ちでいっぱいになる。うまく言葉にできない。孤独さを実感する。一人の夏は長い。

昨日、甥の運動会に行ったのだけれど、夏の運動会はノスタルジーの詰め込みみたいな空間だった。当時の苦しみや痛みや楽しみの記憶がわっと溢れて懐かしいような悲しいような胸が締め付けられる感じがした。当時の自分と重ねて、何だかとても申し訳なくなる。あの頃の夢も希望も描いていた未来も全部消してしまった。全部終わってしまった。幼い私が見たらきっと悲しむだろう。ごめんね。

でも、幸せなんだ。そんな大それた夢もないけれど、明日を生きていく自信すらないけれど、それでも確かに幸せだと知ってる。こんな無意味な毎日が愛おしくて、もう多分どんな壮大な夢よりもずっと遥かに美しいと思う。これでいいんだ。きっと。何も無い、それでいい。誰に許されなくても私は笑っていられるし、今はまだ生きている。高望みなんてしなくても十分なんだ。

知らない場所で誰かが幸せならいい。私のことなんてみんな忘れてしまえばいい。そうしていつか、世界に殺されて私はやっと安心できる。誰も私を知らない世界で、ようやく息がつけるんだ。捻くれていて、卑屈だから、普通の幸せを手に入れたらその責任で死んじゃいそうだ。

報われないくらいがちょうど良い。不運なくらいが、寂しいくらいが、ベストなんだ。誰かの幸せを見て笑ってるくらいが結局私の中では満足なのだろう。向いてない。幸福に不向きだ。幸福が苦手なんだ。

なんだか本当に世界にひとりきりな気がしている。こんな朝方だから静かで、私の存在が誰にも気づかれてないみたい。寂しい。悲しいなあ。こんなに心が痛いなら生まれてくる時に心がなければよかったのに。そんな無意味なifを考える。

でも心があって誰かの痛みがわかるならどんなに辛くても痛くても、これでよかった。もう、私はずっと不幸でいいから周りを幸せにしてほしい。そうしたら、周りを蹴落として成功を掴み取るよりも、ずっと素敵で幸せな人生になると思う。人を傷つけて押しのけて手に入れた幸せなんて私には辛くて耐えられないから。

幸せなんて足りないくらいが丁度いいんだ。

私には。

最期の愛

「我が子じゃなかったら、お前のこと大嫌いだよ。関わりたくもない。」

 

母が今日私に言った言葉。

私は今日母を傷つけたつもりなんてなかった。いつも通り楽しく話しただけだと思っていた。いや、むしろいつもより気をつかっていたし母が楽しんでくれるように頑張ったはずなのに、無意識に傷つけていた。本当にショックだった。

母の愛が形骸化していることは最初から知っている。「我が子を愛さなければいけないから」「育児放棄は罪だから」「何とかして無理矢理にでも愛してる振りをしなければ」そんな思いで構成された愛だと知っていた。

再婚して前の夫との子供ではなく、自分の子が欲しいだけの父と、親戚に「やっぱり今の旦那さん子供がないのは可哀想よ」と言われたから仕方がなく作った母との間の私に最初から愛はなかった。いつだって母は「お前が私の人生を奪った」とか「お前がいなければ幸せになれた」って言う。最近も、「本当は産みたくなった。子供嫌いだし、お前は望んだ子にならなかったし」なんて言うから、罪悪感に殺されそうになってしまった。

「生まれてきてごめんなさい」

そればかりが私の頭の中を駆け巡った。何も無い私の人生はきっと償いのためにあるんだと思った。もし、そうじゃないならあまりに残酷だ。だから誰よりも愛を信じた。誰よりも愛を語った。人を愛したくて、愛されなくても私は愛そうとした。

それでもダメだったんだ。

私の発する言葉が、私の何気ない一言が、誰かを無意識に傷つける。両親からの愛どころか、親戚も友人も恋人さえも、愛は貰えない。誰もが愛想を尽かす。

こんなのはあんまりだと思った。だってこれじゃあまるで、私自身そのものが人としての欠落品。

生きていてはいけないみたいだ。

私はこんな色のない世界を愛して生きていく自信がなくなった。私だけが愛をこめても、一方通行の世界で何を願って、何を頼りに歩けばいいのか分からない。だから考えるのをやめた。愛することをやめた。誰の言葉も何もかも信じないことにした。

でもそれはもっと、寂しさが増すだけだった。孤独が深まるばかりで救いは永遠に来なかった。自分で自分の首を絞めてるようで息苦しい。でもその息苦しさから逃れる術はない。こんなのはもう生きてる意味がない。

ああもう死んでしまおう。

そう思った。そうしてすべてを忘れて来世だ。これでおしまい。来世では愛されたいなあ。でももしかしたら、人なんて永久に愛せないのかもなあ。なんて考えた。でも怖かった。死ぬことは想像よりはるかに怖い。足がすくんで進めない。

結局生きてしまった。命を絶つことを自分が惜しいと思っていることがなんだかおかしくて笑えてしまった。でも途端に涙が溢れて寂しくて悲しくてああこんな世界から救われたいと、ふと思った。

 

だから祈ってしまったんだ。

思わず私は「愛されたい」と縋ってしまったんだ。取り残された世界でいるかどうかも分からないカミサマに。そのカミサマはみんなを愛してくれるって、誰も愛してくれなくてもカミサマは愛してくれるっていうから、甘えてしまった。それがたとえ、私の思い込みに過ぎなかったとしても構わない。だってここに愛は存在しないと知っているから。

 

ねぇカミサマ。あなたは私を見捨てないでね。

私はあなたを愛するから。

 

不平等

平等にと人は言う。

その平等とは何を基準とする平等だろうか。例えば、お金のない人からもある人からも同じだけお金を取るのが平等か、それとも多い人からは多く少ない人からは少なく取るのが平等か。何をそろえるかで全然話が変わる。

だいたい平等を目指しても人はもともと不平等な生き物なのにおかしな話だ。生まれる時、親も家も兄弟も国も性別も何も選べない。勝手にこの世に生まれ、生きろと言われる。理不尽極まりない。

お金持ちだったり、何かを生み出したり成し遂げたり、良い大学を出ていたりすることを人は成功と呼ぶ。誰もがそこを目指すが、恐らく成功するのは簡単ではない。皆が平等に、同じような家庭に生まれ同じような教育を受け、同じような生活環境だったなら皆が成功できるかもしれない。実際は不平等なので、お金があり両親共に優秀、小さいときからの英才教育を受けている家庭もあれば、片親であったり、お金が不足していたり、虐待されている家庭だってある。他もそうだ。友達に恵まれ大きな不幸に見舞われないで生きてきた人もいれば、いじめられたり、何か事件に巻き込まれてしまったりして辛い思いを沢山して生きてきた人もいる。

そう考えると「成功できないことを環境のせいにするな」というのはあんまりな気がする。もしかしたらそういっている本人は大変な苦労をしてそれでも成功したのかもしれないが、そうだとしてもあんまりだ。そういう人も成功するきっかけが何かあるはずだ。どんなに成功したくとも虐待されて家庭の仕事を全てやらなければならなかったり、あるいは親が病気になってお金が足りず参考書ひとつ買えないこともあるかもしれない。精神的にうつ病などになってしまった人だっているだろう。でもそれは、なにかそこから向上する機会がないと環境は変わらないはずだ。そんな人たちを相手に「成功できないのは甘えだ」というのは少し残酷だ。そんな不平等なところで同じように比べられても困るだろう。

苦労した人も成功するきっかけがあると言ったが、これは運の良し悪しだと思う。

運の良し悪しは本当に不平等だと実感する。ちなみに私自身は運がとても悪い。詐欺にひっかかったり、自分の品だけ注文して忘れられたり、受験のとき自分の電車だけ止まったり、受験票が届かなかったり、普段はチェックしない課題を私が初めて忘れたときに限ってチェックがあったり、歩いていたら打ち水をかけられたり、上から植木鉢が落ちてきたり、青で渡っているのに車に引かれたり、テストで勘で書けば全部外れるのが常(本当に一度もあたったことがない)、クジや福引などは絶対当たらない・・・とまあこんなことが何回もある。とにかく運がない。

それなのに友人は、課題を忘れたときに限って集める日が変更になったり、テストで勘で八割取れてしまったり(しかも何故かいつも)、福引でハワイを当てたり、面接でたまたま趣味が合っただけで受かったり、偶然早く帰宅したらその後雷雨になった・・・とかとにかく運が良い。

運なんて回ってくるものだよ!と言われることもあるがかれこれ20年生きてまだ回ってこないのか。だから断言しよう。人には運の良い人と悪い人がいる。悪い場合は諦めよう。どうしようもない。今までかなり損をしてきたが不可抗力なので防げない。「成功したくても時間がかかるんだな」とか「成功には向いてなさそうだけど頑張るか」というようになんとか進むほかない。

だからむやみに平等という言葉でおさめようとするべきではないと思う。そりゃあ平等は素敵だと思うが不可能だ。現実的じゃあない。ただの理想論。皆が皆、自分と同じと思ってはいけない。運のような抗えないことも中には存在するんだ。成功した人が気がついていないだけで、すごく環境に恵まれていたり、運がとても良かったりするのかもしれないからね。