私とわたし

人には二面性があると思う。

 

例えば、私には人に優しくしたいと思うときと自分さえ良ければよいという時がある。相手が笑って幸せそうにしていてくれれば良くて、自分は誰かを救うような仕事がしたいと思ったり、家族や友人を大切に感じたりする。でも、もう一方では自分が幸せならそれでよくてむしろ勝手に生んだ両親を憎んでいたり、良い環境に恵まれながら、上から目線で語る友人に憎悪を抱いたり、人を蹴落として自分のプライドを守れるような地位がほしいと思ったりする。

ほとんど真逆に近いが、どちらも自分という認識をしている。これを二重人格と呼ぶには大げさすぎる。だって裏表の顔なんて恐らく誰しも持っているのではないかと思うのだ。

どちらが本心とかではないように思う。恐らくどちらも本心であるだろう。嬉しいことがあれば人当たりがよくなったり、喧嘩すれば途端に相手が憎らしくなるような感情に波があるように性格にも波があるのだと思う。口では良いことを言っていても頭の中は全く異なっていることなんてよくある話だ。(少なくとも私は日常茶飯事である)

でもそのせいか、たまに感情が分からなくなる時がある。昨日書いた日記やネットの投稿を見返して、「あれ?本当にこんなこと思ったのか?」だとか「まるで別人の文章だ」、「こんなこと思っていたなんて信じられない」と違和感を感じることは多々ある。さすがに驚くがいつものことなのでその時はそっと消しておく。

その程度なら良いのだが、こんな風によく変わるのでどちらかの自分が余計なことを誰かに言っていたりすると非常に困る。いつのことだったか、「将来は人を助ける仕事についてお金ができたら家を買ってあげるよ」と私は両親に言ったらしくて大変な思いをした。両親には過度の期待をされることになり、しかも私は人を助ける仕事に就く設定がついてきて「本当は、将来何も考えていないし家を買ってあげる予定もない」ということをいえない雰囲気になってしまい、両親を説得するのに苦労する羽目になった。

こんなことが多発するのでなるべくよく考えてから発言するようにはしているが、性格が真逆なので良く考えてもどうしようもない。その性格においてのベストな回答をするだけで意見が統一するということはない。

これを踏まえて言いたいのは、人の発言は固執しすぎないほうが良いということだ。性格が変われば考えも変わる。夢も理想も目標も好きなものも興味のあるものも変わるだろう。だから発した一言が絶対だと思わないほうが良い。「あなたを愛している」と言っても、別の時は愛していないかもしれない。「これになりたいんだ」と夢を語っていても次の時には違うかもしれない。そういうことだ。むやみにそれに固執して期待されて勝手に「裏切られた」と言われても、知ったことではない。いや、申し訳ないなとは思うがなにせ真逆の私の話なので理解に困るし、「私もそんなこと言うのはどうかと思うよね」みたいに他人事でしか返せない。

人には二面性があるよなあと思っておいて、なにか以前と違うことを言っていても、人はそういうものだよねくらいに受け止めるのが良いのではないだろうか。自分自身についても悩みすぎず、その時良いなと思ったものを信じて進むほかない。変わったら変わったとき考えればよいと思うのだ。

 

実はこれは、今日とある友人から二重人格と疑われた私の個人的愚痴なのである。