友人の戯言

この世界が全て劇なら、私は悲劇のヒロインにはなれない。いや、なれたらよかった。悲劇のヒロインは最後は愛されるからだ。シンデレラも、白雪姫もそうだ。悲劇のヒロインはいつだってハッピーエンドと決まっている。でもこの舞台での私の役はただの村人だ。名前も与えられてないような脇役。貧乏で、運が悪く、何事も上手くいっていない、そんな不幸な村人なのに、誰も気づかない。気づいても気にしない。名前も知らない村人のことなどどうでもいいのだ。村人?誰?そんなの、知らない。知らないから関係ない。それだけ。誰もがそうだ。

でも他の人にはちゃんと役割がある。名前もある。悲しみも痛みも辛さも舞台上で認識されている。家族が、友人が、誰かがその人の不幸に不運に気付いている。そして労り、愛し愛されている。

私の頭の中は被害妄想だろうか。もちろん私の人生を今語ることは多すぎて不可能なので被害妄想か否かは、君に伝わるはずがない。いかにも被害妄想らしい発言であるし、おそらく誰もがそう捉えるだろう。だからだ。だから救いはないのだ。悲劇のヒロインは被害妄想ではないのに、どうして不幸な村人は被害妄想なんだ?その違いはどこにある?むしろ舞台で認識され、主役や準主役の座にいる悲劇のヒロインは不幸でも悲劇でもないじゃないか。誰かが悲劇だと教えてくれているのだから。それだけでも救いの手は既にあるんだ。

観客はわかりやすい話が好きだ。わかりやすい幸福とわかりやすい不幸を好む。誰にでも共感できるような無難な話を。

分かりにくい幸福も不幸も、認識されない。観客からはブーイングだ。こんなのは駄作、つまらない!だから酷評で幕を閉じる。

それに決まって明らかに当たりの役がある。大富豪の娘だったり、王様の跡取り息子、貴族のお偉いさん…。彼、彼女らは欠点があまりない。確かに、性格が悪いだとかそういうのは多少あるだろう。しかし大きな不幸には見舞われない。順調に出世しそのまま普通に成功する。勝利をすんなり獲得する。

その横で貧乏で、学歴もコネもない人々はもがき苦しみ倒れていく。気づかれもせずに。

これはなんという悲劇!悲劇のヒロインとは倒れていく人々に贈るべき言葉だ!誰も知らないところで絶えていく者をハッピーエンドへ導くべきなんだ。

まあでも実際、作り込まれた物語の中ではそういう意地悪な成功者は追い出されるのがオチだ。でも、現実にそれはない。元々恵まれた人間は恵まれるままに成功に、恵まれない人間はどうあがいても前者に適わない。

しかし、世の中が悲劇のヒロインと言うのはたいてい前者に唐突に起こった不幸の物語だ。最初から不幸な人間には見向きもしない。

確かに、恵まれた人間が何か罪を犯したわけではない。だから恨むのはお門違いかもしれない。だとしても、恵まれない人間がなにか罪を犯して不運に陥ってるのか?違う。好きでなりたくて、自分のせいでそうなったのではない。生まれ持ってしてそうだっただけだ。いったい彼らになんの罪があるんだ?どうして報われない?何故ハッピーエンドになれないんだ?

何故いつも彼らはおいやられ、そうして君たち自身が悪いのだと洗脳され、しまいには成功なんて夢を見なくなる。完璧なバッドエンド。

作り物の物語はよく言う。「愛」「情」「信頼」が大切だと。

果たしてそうだろうか。そんな不確かなものに何があるだろう。恵まれた者にあるそれらは、恵まれない人間にとっても大切だろうか。最初から持っていないのに?どうして大切だと分かるのか。そんな言葉は、恵まれた人間の美談だ。ただの美しい物語。偽物の、いや、正確には私たちにとっての偽物の物語。

だって私は知っている。人は必ず裏切ることを、恩は仇で返されることを、愛は見せかけであることを、人は嘘しかつかないことを、すべて。人間に美しさなどない。私はただ、返ってこないものには執着しないんだ。家族も含めて他人には関心がない。何を期待したって無意味だからだ。期待などしようがない。だから怒りはない、相手に何を言われてもあまり傷つかない。

これでいい。私は舞台なんて降りてやる。こんな劇を続けるのは疲れる。全てやめて閉幕。

たった一人きりの舞台を始めよう。もちろん主役も悲劇のヒロインも、村人も意地悪な成功者も全部私がひとりで演じる。最後はハッピーエンド。誰にも邪魔はさせない。君も素晴らしいと思うだろう?

 

なんて話を今日一緒に飲んだキザな友人が語っていたんです。かっこつけて自分に酔い、私を真っ直ぐに見据えて満足そうに笑う友人がね。

ところで、その友人は帰り際に言ったんですよ。

「最近友人を失ったんだ」

と。

 

それは、まるでペンを失くしたから買え変えないと、というようなノリでした。人は消耗品とでも言うように、無関心そうにスマホを眺めながらヘラヘラ笑って。

それも、一番の友達を失くしたというのに。