人身事故

例えば、朝の8時に通勤電車が止まる時何を思うのだろう。大抵の人は、「迷惑だな」「こんな時に」「早くしてくれ」だと思う。でも僕は考えずにはいられない。あぁまた一人、耐えられなかったんだなあと。

今こそ引きこもりだから朝に混んだ電車に乗ることなんてほとんどないけれど、学生の時は毎日乗っていた。必死に捕まるつり革はまるで首吊りの紐に見えて毎日死にゆく気分だった。学校へ行って勉強するのは学生の本分であるし、それが将来にとっていかに重要であるかも知っている。それでも僕は苦しくてたまらなかった。それから数年たって引きこもりになっても、電車に乗るとゾワッとする。「人身事故」の文字を見るだけで、明日は我が身の気分になる。正直、自分はいつこうなってしまうのかと怯えるほどに自分と死とは密接な関係にあると感じる。

偽善者は笑って、「死ぬなんてもったいない」「これから良いことがあるかもしれない」「死んだら何も出来ない」「尊い命だ」「無駄にするな」と言う。そういう人たちは知らないのだと思う。死ぬしかない苦しみをきっと知らない。立つ場所もなく、縋るものもなく、生産性のない無価値な日々を機械的に送り、自分が誰かもわからず、自分の存在意義もなく、このままただ死んでいくのだろうなという感覚とともに生きるというのはどれほどのものか。自分の無力さを知り、この世の無意味さを前に諦観する。「尊い命だ」なんて一ミリも思えない。尊さなんてどこにも見いだせない。むしろ生まれたことが間違いだとさえ感じる。これからの良いことを望むなんて気力は残されていないんだ。何十年と生きてきて良いことなんてなかったのにまだ夢を見ろなんて残酷なことをよく言えるなと思うさ。

そりゃあ迷惑だろうけど、死にゆく本人にしてみれば迷惑なんて知ったことではないのだ。環境に、社会に、世間に殺された身としては、最後に最高で最悪の迷惑と不幸を世間の皆様に味わわせてやろうと思うかもしれない。僕なら思うね。それでも死んだ人間を「あんな迷惑なやつ」と罵るのが社会なんだ。ほら、死んで正解な世界じゃないか。

魔が差したように、ホームに足を踏み入れるその瞬間の絶望感と無心さと儚さに僕は共感する。きっとそれは美しい。色々な想像を絶する限界がすべて弾けて壊れて生を奪う時、おそらく安堵さえするんだ。自分が死んでも誰も困らない世界に感謝をして、天に愛の告白を。

だめなときはだめなんだよ。何を見ても何をしても、だめなひとはだめで、もうそれは苦しむしかない。だから世間を呪って良いし、社会の破滅を願って良いんだ。何も持ってない人間の特権さ。

自分に正直って素敵だと思うんだ。