バランス

 

死にたいと思わないようにするようになった。

私は、期待をしてないうちは死なないと思う。希望を見出したらきっと死ぬだろう。迷うことも無い。死にたくないから死なないのではない。ただ死ぬ必要が無いから死なないだけだ。だから死にたいと思わないようにしている。死にたいと思う瞬間は生きていればいくらでもあるから。

同じように生まれて同じひとであるのに何もかもが上手くいかないこともある。一生懸命頑張ったのに、周りははるかに自分より出来ていると気がついて次元がずれていることを知った。きっと同じくらい頑張った。手なんか抜かなかったし自分の力を出し切った。それでも足りない。何故か評価されない。届かない。悲しい、辛い、悔しい。これをひとは劣等感という。こういうのは本当に山ほどある。

ひとは残酷な生き物だから無意識に傷つける。可能性なんか1%もないのにひどいことを平気で言う。そういう時、今この人に殺されているなあと思う。私は意地悪だから「今あなたはひどいことを言っていますよ」と教えてあげる。その時の相手が傷ついた顔を見て感じるほんの少しの優越感。逆に「そうしたらきっと幸せになれますね」と思っても無いことを告げる時、嬉しそうな顔をして満足そうに笑って皮肉と気づかず、心底幸せそうにしてるときの相手の顔をみて抱く嫌悪感。どうしたって救いが無い。どちらも誰かの気分が悪い。あまりに気持ち悪すぎる世界だから恐ろしいと思った。

ハッピーエンドの物語に吐き気を覚えるのはいつからだったか。人からの同情に殴りたくなる感情を抱くようになったのはどうしてか。ハッピーエンドなんてぬるま湯だ。現実には絶対に起こりえない美しすぎる奇妙なお話。そんなものをどうしてひとは好き好んで読めるんだと思う。あんな幻想に憧れて焦がれて惹かれたりなんかしたら、ひどく自分が惨めになる。嫉妬だろうか。なんにせよ気持ちが悪い。耐えられない。同情だって似たようなものだ。何も知らない相手から告げられる「それは辛いだろうね」「とても苦しいよね」みたいな感情。おそらく相手にはわかりえない感情なのにそんなありきたりな言葉で軽い感覚で勝手に悲しまれ哀れまれる。これを許してしまったら自分の痛みは他人と分け合える程度のものということだ。これも自分が惨めになるばっかりだ。

救いなんてあるはずが無いんだ。私の現実というものは絶対に幸せになれない。そう決まっている。もうあきらめているんだ。不幸という役割なんだきっと。世界に幸福な人がいるように私は不幸という役割を引き受けてバランスを取っているんだ。幸福とは数え切れないほどの悲劇の中の一滴の雫。たくさんの幸福の中の幸福はただの日常と呼ぶ。だから皆が幸福じゃいけないんだ。私に与えられた大事な役割なのさ。だからどんなに辛くとも死にたくはならない。なれないんだ。

与えられている幸福を失うのは普通怖いだろう。でも生憎私には失う幸福というものが無い。何も望まない人間はどんなに現状が悪くなっても受け入れられるんだ。でもひとは愚かであるが故に、相手も同様に苦しむだろうから幸福を自らの手で捨てるなんてありえないと思い込んでいる。そして安心している。

これから自分が不幸に落とされるとも知らずに。